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新たなる旅立ち ③

last update Last Updated: 2025-05-11 19:30:21

 神殿の内部は、まるで時間に置き去りにされたかのように空洞のまま広がっている。人の気配はなく、ただ沈黙だけが支配する空間。

 天井を支える柱が長い歳月を経てもなお、その使命を果たし続けている。

 崩れかけた階段の表面に刻まれた擦れた跡は、かつての参拝者の足音の名残りだろうか。過去と現在が交錯し、囁きのような気配が足元から静かに立ち上ってくる。

 所々にある台座らしきもの。かつてはそこに何か置かれていたのだろう。しかし、今はその痕跡すら朽ち果て、石の枠だけが残されている。

 きっと盗掘にあったのだ。

 金目の物はすべて奪われ、名も知らぬ場所へと流されていく。人間の欲深さが歴史の痕跡を塗りつぶしていくのだ。それが、さも当然であるかのように。

 だが、たとえ物は壊れ、形を失ったとしても、そこに宿る想いは消えることはない。この神殿がそうであるように。

 リノアは神殿に息づく何かを感じ取ろうと、歩を進めた。

 踏みしめる度に鳴る微かな音が、沈黙の中に生気を与える。

──この胸の奥で込み上げてくる懐かしい想いは何だろう。丘の上から眺めた幼い頃の記憶が、今になって蘇ってきているのだろうか。

 かつて、人々がここで祈りを捧げ、儀式を執り行っていた時代があった。しかし、時が経つにつれ、儀式は村へと移され、この場所は次第に忘れ去られていった。

 今は、神殿はただの遺跡として扱われている。それどころか現在の神殿は村の管轄ですらない。

 ノクティス家の人間として、この神殿と関わることは、もはやない……

 そのはずだった。

 しかし──。

「それにしても静かね」

 エレナの言葉が澄み渡る空気の中にそっと溶け込んだ。

 神殿は外界と完全に隔てられているわけではない。それでも、ここに漂う空気はどこか異なる。

 言葉にならない感覚──

 もっとシオンにノクティス家の歴史のことを聞いておくべきだった。私はあまりにもノクティス家のことを知らなすぎる。

 いずれ、シオンに話を聞くことになるだろうと、その時は漠然と思っていた。

 まさか急にシオンが亡くなり、私が村のリーダーに抜擢されるなんて──誰が予想できただろうか。

 現実を前に、リノアは息を呑むしかなかった。

 運命は唐突に方向を変え、否応なくリノアをその流れに巻き込んでいった。気づけば、すでに後戻りできない場所へと踏み込んでいたのだ。喪失の痛みも
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  • 水鏡の星詠   新たなる旅立ち ⑥

    「ねえ、エレナ。エレナって絵を描くのが得意だったよね。ここに描かれた紋章や絵を写してほしいんだけど」 リノアは壁画を見つめながら、ふと口を開いた。 エレナはシオンの研究を手伝うために、これまで何度もシオンと出かけて、植物などシオンの研究対象を描いてきた。「別に構わないよ。後に役に立つのかもしれないしね」 そう言って、エレナはすぐに鉱彩筆を取り出し、壁画へと視線を戻した。 壁に刻まれた絵――その線、その形、その意味――すべてを正確に捉えようとするかのように、エレナの指がゆっくりと動き始めた。 鉱彩筆が滑るたびに、絵の輪郭が静かに浮かび上がっていく。筆先に宿る淡い鉱石の輝きが線をなぞるたび、細部がより鮮明に映し出されていく。 エレナは筆を持つ指に力を込め、壁画の奥に隠された何かを探るように筆を走らせた。 エレナが絵を描いている間、リノアは壁画やレリーフ、そして紋章に思いを寄せた。 リノアの高い感受性が断片的だった思考をひとつずつ繋ぎ合わせていく。 かつて、この森は今よりも豊かだった。 人々は自然を敬い、心で精霊を肌で感じていた。 しかし時が経つにつれ、森は衰え、争いが影を落とし、いつしか人の心までもが変わってしまった。 戦乱の炎が多くの自然を焼き尽くし、人々の間で分断が生じたのだ。 戦乱前は、近隣の村や諸国とは争うことはなく、今より密接に結びついていたと聞いている。 だが今、人々は自然を敬う気持ちを失い、人間同士の関係にも影を落としている。 精霊を心で感じるなんて、あるはずもない。 リノアは深く息を吸い込んだ。 この神殿に刻まれた壁画やレリーフには、きっと大きな意味が込められている。 紋章の変化、描かれた壁画──その繋がりを解き明かすには、もう少し時間が必要だ。「よし。これで大丈夫。あとでじっくり見直せるようにしておいたよ」 エレナは鉱彩筆を片付けて、描き上げた写しを慎重に折り畳むと、ふうっと息をついた。「これが何を意味するのか、解き明かせたら良いんだけどね」 エレナは肩を軽くすくめて、描き上げた写しを眺めた。 エレナは壁画を丹念に写し取っているものの、その手つきはリノアのような探求の色は薄い。 置かれている立場が異なる以上、それは仕方がないのかもしれない。エレナは紋章に秘められたノクティス家の謎に強く惹かれているわけ

  • 水鏡の星詠   新たなる旅立ち ⑤

     ノクティス家は、かつて広大な森とその恵みを統べる存在だった。その紋章は繁栄の証であり、権威を象徴するものだったはずだ。 しかし時代は流れ、かつて誇示されていた力は次第に影を潜めていった。──そうなると……ノクティス家の各名家や村人たちとの位置づけも変わることになる。「この紋章って、ノクティス家の変化を示してるんじゃないかな」 リノアの瞳がわずかに揺れた。思考が新たな方向へと動き出し、確信へとつながっていく。「単なるデザインの変更って感じじゃないよね」 エレナは紋章を眺めながら、小さく頷いた。「もしかすると、ノクティス家の立場が変わったから……なのかも」 リノアは紋章から目を離さず、思案するように口を開いた。 「立場?」 エレナは軽く首を傾げ、言葉の意味を確かめるように問いかけた。「昔、ノクティス家は森を統べる一族だった。だけど、いつの頃か、その権威は失われてしまった」 リノアの言葉には、ただの歴史の事実ではなく、そこに込められた重みがあった。「あの戦いの後?」 エレナが問う。「ううん、戦いのずっと前」 リノアの言葉が空間に溶けるように響いた。エレナはしばし沈黙し、思案するように紋章へと目を戻す。「そうか。権威が弱まったから、紋章のデザインを変えたってことなのか」 納得したように微かに頷くエレナ。しかし、リノアの目はすでに別の可能性を探っていた。──権威が弱まったから、紋章のデザインを変えた。だけど、それなら形をわずかに変えるだけで済むはず。 リノアは、じっくりと考えを巡らせた。 以前の紋章は星と植物の図形を合わせたものだった。それは天と大地を表すものであり、それぞれの造形は明瞭だった。 しかし今の紋章は二つが溶け合い、境界が曖昧なものになっている。──何か別の意思が込められているのではないか。 リノアは壁画に刻まれた紋章をもう一度見つめた。しかし、考えすぎるのはやめようと思い直し、壁画から視線を外した。 紋章の変化には何らかの意味合いが込められているのかもしれない。だけど今はそれを知るにはまだ手がかりが足りない。 そんな思いが頭をよぎった時、ふと、リノアの意識は別の方向へ向いた。 対として描かれた壁画――その場面が、リノアの思考を引き寄せる。──あの紋章の変化と、この壁画に刻まれた場面……何か関連があるのでは

  • 水鏡の星詠   新たなる旅立ち ④

     リノアはふと風を感じた。 冷たい空気が肌を撫で、心の奥に染み込むような感覚が広がる。 リノアの背中を押すように、風がゆっくりと吹き抜け、柱と柱の間をすり抜けていった。 その流れは、ためらいなく神殿の奥へと進んでいく。 奥の壁にあるのは、風化した壁画──。 色褪せた形象が並び、時の積み重ねがその表面に刻まれている。 リノアは歩み寄り、その一つに触れた。──これは……『森の繁栄と、その荒廃』……。 リノアは、その隣に目を遣った。 そこに描かれていたものは──『人々が祈る姿と争う姿』そして──『精霊と荒れ狂う獣』だった。 その中心に、描かれてあるもの……。 これは種子だろうか。種子が二つ刻まれている。 一つは『龍の涙』、そしてもう一つは……これは『生命の欠片』だろうか? それぞれの絵は一つだけではなく、対として描かれている。 エレナがリノアの隣に並び、口を開いた。「これって……ただ過去を記しただけではないよね。森の繁栄と荒廃。相反するものが描かれてる……」 その声には、わずかな違和感が込められていた。 リノアとエレナは、その意味を探るように周囲を見回した。すると、壁の一角にレリーフがあることに気付いた。 様々な動物、そして植物、川や山――それらが織りなす命の調和が石の表面に深く刻まれ、影と光が織りなす陰影によって、まるで動き出しそうなほどの存在感を放っている。 その中央にひときわ目立つ巨大な樹木。 大地へ深く根を張り、星々の光が樹木を癒す構図だ。 リノアとエレナはレリーフに魅入った。──きっと、壁画もこのレリーフにも何らかの意味が込められている。「このレリーフ……森の歩んできた歴史が刻まれているのかな」 リノアがぽつりと呟いた。「たぶん、そうだと思う」 エレナはレリーフの表面にそっと指を這わせた後、少し考え込み、そして続けた。「未来への願いも込められているんじゃないかな」──何百年、何千年と続いてきた命の継承が、今途絶えようとしている。人間の強欲さによって……「この森は、守られるべきものなのに……」 そう言って、リノアは視線を落とした。 二人の間に沈黙が落ちる。 レリーフに刻まれた記録が、ただの過去を語るものではないことは、もはや疑いようがない。 「エレナ、ここにも何か描いてあるよ」 リノアが口を開

  • 水鏡の星詠   新たなる旅立ち ③

     神殿の内部は、まるで時間に置き去りにされたかのように空洞のまま広がっている。人の気配はなく、ただ沈黙だけが支配する空間。 天井を支える柱が長い歳月を経てもなお、その使命を果たし続けている。 崩れかけた階段の表面に刻まれた擦れた跡は、かつての参拝者の足音の名残りだろうか。過去と現在が交錯し、囁きのような気配が足元から静かに立ち上ってくる。 所々にある台座らしきもの。かつてはそこに何か置かれていたのだろう。しかし、今はその痕跡すら朽ち果て、石の枠だけが残されている。 きっと盗掘にあったのだ。 金目の物はすべて奪われ、名も知らぬ場所へと流されていく。人間の欲深さが歴史の痕跡を塗りつぶしていくのだ。それが、さも当然であるかのように。 だが、たとえ物は壊れ、形を失ったとしても、そこに宿る想いは消えることはない。この神殿がそうであるように。 リノアは神殿に息づく何かを感じ取ろうと、歩を進めた。 踏みしめる度に鳴る微かな音が、沈黙の中に生気を与える。──この胸の奥で込み上げてくる懐かしい想いは何だろう。丘の上から眺めた幼い頃の記憶が、今になって蘇ってきているのだろうか。 かつて、人々がここで祈りを捧げ、儀式を執り行っていた時代があった。しかし、時が経つにつれ、儀式は村へと移され、この場所は次第に忘れ去られていった。 今は、神殿はただの遺跡として扱われている。それどころか現在の神殿は村の管轄ですらない。 ノクティス家の人間として、この神殿と関わることは、もはやない…… そのはずだった。 しかし──。「それにしても静かね」 エレナの言葉が澄み渡る空気の中にそっと溶け込んだ。 神殿は外界と完全に隔てられているわけではない。それでも、ここに漂う空気はどこか異なる。 言葉にならない感覚── もっとシオンにノクティス家の歴史のことを聞いておくべきだった。私はあまりにもノクティス家のことを知らなすぎる。 いずれ、シオンに話を聞くことになるだろうと、その時は漠然と思っていた。 まさか急にシオンが亡くなり、私が村のリーダーに抜擢されるなんて──誰が予想できただろうか。 現実を前に、リノアは息を呑むしかなかった。 運命は唐突に方向を変え、否応なくリノアをその流れに巻き込んでいった。気づけば、すでに後戻りできない場所へと踏み込んでいたのだ。喪失の痛みも

  • 水鏡の星詠   新たなる旅立ち ②

    「エレナ、人影が投げ捨てた水晶だけど、ポケットに入れたままなんだよね。大丈夫かな?」「身体は平気?」「うん。特に何も……」 リノアは首を振った。 あの日の夜、水晶に直接手を触れたが、今のところ身体に変調はきたしていない。「何もないなら、持っていても良いんじゃない? だけど……」 エレナは視線を足元に落とし、微かに眉をひそめる。「鉱石はともかく、この土には触れたくないね」 リノアは無言のまま、足元の土を見つめた。 このまま放置するわけにはいかない。だけど無闇に処理をするのは危険だ。取り返しのつかない事態を引き起こさないとも限らないのだ。今日は何もせずに立ち去った方が賢明だろう。 原因の究明は、また今度やれば良い。 リノアたちはオルゴニアの樹を後にし、星見の丘を越えて街道へと向かった。空は澄み渡り、柔らかな陽が旅人たちの影を伸ばしている。 昨夜の人影は、すでに消え去っていた。この中に潜んでいる可能性は勿論あるが、それを確かめる術はない。 それは向こうも同じだ。彼らは草むらに隠れていた私たちの存在を知らない。仮に、この場に人影がいたとしても、お互いに気づかぬまま通り過ぎ去るだけだ。 ここで衝突することはない。 街道沿いに神殿が聳え立っている。 その白亜の神殿は、どこか時を超えた厳かさを湛えている。時を超え、多くの者が祈りを捧げ、願いを託してきた聖域──。 風がわずかに吹き抜ける。 その空気には、かつてここで交わされた祈りの余韻が、まだ微かに残っている気がした。 リノアとエレナは神殿を前に足を止め、そして見上げた。 シオンの研究所でヴェールライトのペンダントに触れた時、鮮烈な映像が脳裏に浮かび上がった。「あの時、見たものとは違う……」 思わず漏れた声は、風にさらわれるように消えていった。 目の前の神殿は、厳かで歴史の重みを感じさせる壮麗な造りとは異なり、随分と簡素な造りをしている。「廃墟っぽいけど、なんか雰囲気あるね。どうする? 立ち寄ってく?」 エレナの何気ない問いに、リノアは逡巡した。 ここではない──そう思いはするが、この場所をただ通り過ぎることに妙な違和感を覚える。「うん、行ってみよう」 リノアとエレナは顔を見合わせて、ゆっくりと神殿へ歩を進めた。 神殿の入口に、古の職人が刻んだ樹木の柱が立っている。その表面

  • 水鏡の星詠   新たなる旅立ち ①

     リノアはエレナと並び、小道の石が敷かれた道を歩いた。 風がリノアたちの背中を押すように吹き、遠くの木々を揺らしている。 かつては豊かな緑に包まれていたこの地も、今ではその一部がむき出しになり、土があらわになっている。 大地の水分が減ったのだろう。 足元の土はかつての湿り気を失い、踏みしめるたびに細かく崩れ落ちていく。 草木は力なく揺れ、根を張ることすらままならない。湿り気を好む苔やキノコ類も姿を消しつつあった。 霧の密度にもむらが生じている。霧が濃く立ち込める場所もあれば、そうではない場所もあるといった具合に……。その差は年々顕著になっている。 樹々が枯れて風が抜けやすくなったことが、霧が薄くなった原因ではないか。 この地は変わりつつある。 ゆっくりと――だが、確実に。 リノアは足を止め、オルゴニアの樹の根元に生える草木をじっと見つめた。昨夜、鉱石によって枯死した草木たちだ。──何か、おかしい。 リノアは膝をつき、草木に手を添えた。 指先にざらつく感触。これは通常の乾き方ではない。石を思わせる異常な固さだ。──硬質化している……  昨夜、見た時は、ただ草木の生命が奪われただけだと思っていた。しかし、この枯れ方は……。 何かがこの土地そのものに強制的な変化を与えている。 リノアは周囲を見渡した。 淡く光を帯びた痕……  月明かりでは気づかなかった痕跡──草木や土、そして岩肌に至るまで、その色が僅かに変わっている。「エレナ……これ、ただ枯れたんじゃないよね」 リノアの声がわずかに震えている。 エレナは眉をひそめ、慎重に足元の土を掬い上げた。 肌には直接触れぬように……。それは本能的な警戒から来るものだった。 乾ききっているはずの土が妙な粘性を持って指に絡みつく。「鉱石の力って、魔法のような人知を越えたものなのかと思っていたけど……」 エレナは布越しに掬い上げた土をじっと見つめた。 ただの自然現象なのか、それとも誰かの意図が働いているのか――。 リノアの背筋に、薄く冷たい感覚が走った。 この影響が広がれば森全体が──いや、もっと広範囲にわたって、生命が奪われていくはずだ。 静けさの中、ふと風が吹き抜けた。朽ち果てた枝が抵抗することなく音もなく崩れ落ちる。 まるで、この場所で生きることを諦めたかのように……

  • 水鏡の星詠   第二章  水の都・アークセリア ~水鏡の湖へ~

     朝日が研究所を淡く照らし、柔らかな光がペンダントに反射する。 リノアはペンダントを握りしめ、ヴェールライトのぬくもりを感じ取った。 いよいよ水の都・アークセリアへの旅立ちだ。「トラン。頼んだよ」 リノアは昨晩、したためた手紙をトランに手渡した。 それは親友のアリシア、幼馴染のアリス、そして村長のクラウディア宛のものだ。 村へ戻らず、直接アークセリアへ向かうこと。そして旅の目的が書いてある。 トランには、その三人以外には詳細を避けるように言ってある。それは信用のおける人だけにしか伝えない方が良いと判断したからだ。特にカイルは避けたい。 カイルが何を考えているのか掴みきれない以上、カイルに情報を与えるのはリスクを伴う。 こちらが何をしようとしているのか、カイルに知らせてしまえば、どんな波紋を生み出すか分からない。 たとえ村内の者であっても、慎重に接するべきだ。 リノアは息を整えて、視線をアークセリアの方角へ向けた。旅立ちの空気が満ち、背中を押すように朝の風が吹き抜けていく。「必ず戻って来てね。約束だよ!」 トランの声が澄んだ空に響く。 リノアはトランの笑顔を見つめた。 いつものようにトランは明るく振る舞っている。けれど、その瞳の奥には揺れるものがあった。 本当は一緒に旅立ちたいのだ。 トランは知っている。 自分がまだ幼く、この旅に付いて行くことができないことを。 戦う力も、危険を乗り越える術も持たないことを。 だからこそ、ただ笑顔を浮かべ、強がるしかないのだ。 リノアは、ふと目を伏せた。 トランの気持ちが痛いほど分かる。「いつか……」 その言葉の続きを飲み込み、リノアは迷いを断ち切るように顔を上げた。「トランも元気でね!」 晴れ渡る空に声を響かせ、リノアとエレナは力いっぱい手を振った。 トランも笑顔で応えたが、その指先はほんの少し震えている。 本当はトランのように、私だって不安なのだ。 この先、何が待ち構えているのか分からない。 アークセリアへの旅路に、どれほどの困難が潜んでいるのか……。 それでも、立ち止まるわけにはいかない。 私は選んだのだ――進むことを。 だからこそ、後ろを振り返らず、歩みを続けなければならない。 遠ざかっていくシオンの研究所、そして、小さくなっていくトランの姿…… トランの

  • 水鏡の星詠   ヴェールライト ⑫

    「それにしても、シオンがこんな研究をしていたなんて……」 エレナは息を吐き、その思いを噛みしめるように言葉を続けた。「私たちに知らせなかったのは、危険な思いをさせたくなかったからだろうね。でも、私、頼って欲しかったな……」 シオンの孤独な探求に思いを馳せるたび、胸の奥にかすかな痛みが広がる。 エレナはふと視線を落とした。 その横顔には、どこか寂しげな表情が垣間見える。「森の均衡を壊そうとする者たちがいるのなら、私たちもただ見ているわけにはいかない」 エレナの言葉は力強く、揺るぎない意志を感じさせる。 グリモナのグレタ、街の者たち──それぞれが暗躍し、何かを求めている。 リノアは夜の静寂に目を向けた。──簡単にはいかないのかもしれない。だけど、これはやらなければならないことだ。シオンのためにも、自分自身のためにも。 月の光が窓辺に揺らめき、影を伸ばしている。 その影は、これから進むべき道の形をぼんやりと描いているようだった。 リノアは視線をエレナへ戻した。「エレナ、アークセリアへ行こう」 水の都――星詠みの力を知る場所。──迷っている時間はない。「そうね、明日にでも旅立ちましょう」 エレナは迷いのない声で答えた。 夜風が書斎のカーテンを揺らし、月の光が静かに差し込む。「さあリノア、もう寝るよ。今夜はしっかり休もう」 エレナの穏やかな声にリノアは頷いた。 シオンの研究ノートの一部と手紙を手に寝室へ向かう。 それらを鞄にしまい込み、毛布にくるまると、心地よい重みが体を包み込んだ。 旅立ちの緊張感がわずかにほぐれ、ゆっくりと疲れが溶けていく──まるで波が静かに砂をさらうように。 トランの穏やかな寝息が微かに聞こえる。 夜の静けさの中、リノアは目を閉じた。 瞼の奥に浮かぶのは、記憶の声。水鏡の湖──古木の根にあった鉱石──龍の涙、生命の欠片── リノアの思考は過去へと遡っていった。 あの森での出来事が頭をよぎる。 シオンが亡くなった場所の近く、焚き火の跡で突然、風が舞い上がり、灰が舞い上がった。 そこに現れた一つの木箱。 あの風は私の星詠みの力が呼び起こしたものだったのかもしれない。 あのような場所に隠さねばならなかった理由…… おそらくシオンは誰かに追われ、龍の涙を研究所まで運ぶことができなかったの

  • 水鏡の星詠   ヴェールライト ⑪

     リノアは手紙を閉じて息を深く吐いた。そこには言葉にできない思いが滲んでいる。 書斎の空気は重く、まるでラヴィナの筆跡が今もこの部屋に息づいているかのようだった。 シオンの探求、森の危機、星詠みの力――手紙に綴られた断片的な情報が未完成の絵のように、リノアとエレナの心に新たな問いを投げかけている。 リノアは視線を落とし、指先で紙の質感をそっとなぞった。「戦乱で消えた者たちが生きている……」 リノアは震えた声で言った。 指先に残る紙の感触が現実のものとは思えないほど重く感じられる。 噂では聞いたことがあった。戦乱のさなかに逃げた戦士たちが、森のどこかの集落でひっそりと暮らしているという話や、街へと連れ去られた者たちが今も影のように生き延びているという話を……「噂の域を出るものではないけど、街に行った人たちから目撃例を何度か聞かされてる。もし、それが事実なら……」 エレナの声が沈黙を破り、書斎の空気をわずかに震わせた。 戦乱の後、多くの者が姿を消した。亡骸の数を照らし合わせれば、単に命を落としたのではなく、何者かによって連れ去られたと考えるほうが自然だ。 戦力を削ぐため――もしそれが真の目的だったのなら、彼らは今もどこかで生きているのかもしれない。 もちろん父と母も……。 誰もが忘れかけていた名が、今、目の前で蘇ろうとしている。その可能性がリノアの鼓動を速めていく。──確かめなければならない。 リノアは再び手紙を開いた。「ヴェールライトの鍵は水鏡の湖。そこへ赴けば、星詠みの力が目覚める。か……」 リノアが自分に言い聞かせるように呟く。 星詠みの力……。それが何を意味するのか、まだよく分からない。だけどシオンが求めたもの、森を脅かす危機、そのすべてが私をそこへ導いている。「鉱石を掘り、森を冒涜というのは、あの人影たちのことでしょうね」 エレナは冷静に一つの事実を確認するように言った。 この危機的な状況下であっても、まだ欲に囚われる者たちがいる……。 彼らにとっての鉱石は、生存のために不可欠なものではない。それは金銭、名誉――欲望を満たすためのものだ。「どうやら動いている者はグレタだけじゃなさそうね。慎重にならないと」 エレナの目が鋭く光った。 レイナのあの冷たい目も気になる。トランも言っていたように、何か裏があるのではな

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